はじめに
●今回から、「しくみ」、「音楽を形づくる要素」ついて触れていきます。
前々回から何度も「しくみ」を理解しましょうと言っていますが、これには理由があります。
絵画や彫刻などの芸術作品はまず「全体」が目に入り、それから「細部」に視点は移っていきます。しかし、音楽は、「全体」が一度に耳に入ることはありません。時間経過とともに「細部」を積み重ねていくものなのです(フランスの作曲家ヴァンサン・ダンディ(1851~1931)も同じようなことを言っています。)。
ですから、「細部」つまり「しくみ」や「諸要素」が聴き手に伝わるような、聴き手が「諸要素」を「全体」に結び付けられるような演奏が望まれるのです。
今回、まずは「音楽を形づくる要素」を分類してみます。その後、いくつかの要素について述べたいと思います。
「音楽を形づくる要素」
●前回ご紹介しました「学習指導要領」にある言葉をこの項のタイトルにしました。楽譜に記されているさまざまな情報、ととらえていただいてもいいと思います。それらを挙げていってみましょう。
・拍子
・調性
・テンポ
・音の配置(音高、旋律、リズム、和音あるいはオーケストレーションなど)全般
・音価
・強弱の変化
・アーティキュレーション
・表情等を指示する記号や言葉
などはすぐに挙げられると思います。
・作品のタイトル
・作曲者や編曲者の名前
・委嘱者、献呈者、初演者などの情報(記載されていないことも多い)
・著作権に関する情報(最初のページの下にあるc?マークで始まる記述)
・プログラム・ノート(作曲者あるいは出版社による)
なども・・・。
ここでの考察は、上記の「拍子」から「表情等を指示する記号や言葉」までが中心となりますが、作品をとらえる上では当然無視するわけにはいきませんよね。
●さて、「音楽を形づくる要素」を挙げていく中で気づくことがあります。それは、演奏者の裁量で「変えることができないもの」と「変化する(させる)余地のあるもの」、「変化が期待されるもの」があるということです。
考え方はさまざまあると思いますが、私は次のように考えます。
「変えることができないもの」として挙げられるのは、「拍子」、「調性」、「音の配置全般」。
「変化する(させる)余地のあるもの」は、「テンポ」と「音価」。
「変化が期待されるもの」は、「強弱の変化」、「アーティキュレーション」、「表情等を指示する記号や言葉」。
皆さんはどう考えますか?
●ご存知の方も多いでしょうが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)が活躍した時代の楽譜には、ほぼ、上述の「変えることができないもの」しか記されていません。それ以外の要素は演奏者の教養、センスに委ねられていたと言っていいでしょう。
自筆譜ではありませんが、バッハ晩年の大作『フーガの技法』の最初のページをご覧ください。
(引用:音楽之友社( Barenreiter-Verlag)版スコアより)
ちなみに、この作品は楽器の指定もありません。
●私は、前々回のコラムの最後の方で、「いくつかの要素に絞って目を通すことから始めてみませんか?「今日はこれとこれ、次はこれとこれ」というふうに。それを繰り返すことで、バラバラのように思えた様々な要素が深く関わり合っていることがわかってくるはずです。」と書きましたが、スコアを見ていくひとつのやり方として、「音楽を形づくる要素」をご自分なりに整理してみるといいのではないかと思います。
各要素をどのような順序で見ていこうか・・・ということについては、もちろん決まりなどありません。ご自分が気になるところから始めて見てはどうでしょうか?
今回は、「音楽を形づくる要素」のうち、「拍子」と「調性」について触れてみようと思います。
拍子
●「拍子」あるいは「拍節」というものは、人体に置き換えると「骨格」といっていいかもしれません。骨格をしっかりとらえてこそ、自在に動きが取れるでしょうし、「感情」面からのアプローチも多彩になるかもしれません。「感情」面が優位になると「骨格」に無理がいくものです。私のような年代になると痛みが和らいでいく速度も遅くなる。音楽も同じではないでしょうか?
一定の拍子を保ったまま展開する作品もありますし、目まぐるしく拍子が変化する作品もあります。そこにも作曲者や作品の持つ「感情」というものが隠れているかもしれません。
●このような経験はありませんか?
スコアを知らずに聴いていた時に感じた拍子が、実施にスコアを見た時全く違っていた、というものです。
ダナ・ウィルソン(1946~)の『新世界の踊り』という作品をご存知の方も多いと思いますが、私は初めて聴いた時から、「三拍子」と感じていました。
曲の最初は打楽器のアンサンブル、次第に楽器の数が増えていきます。
私は、上記の譜例のように感じていたのですが、実際にスコア目にした時は、「そうだったのか・・・」と。
(引用:Ludwig Maters Publications版スコアより)
これ、リズムのとらえ方全く変わってきますよね。もちろん、聴く側の能力の問題、聴いていた演奏の問題も多少はあったのかもしれませんが、新鮮な驚き、嬉しい発見でした。
アルフレッド・リード(1921~2005)の『アルメニアン・ダンス パート1』の冒頭は「四分の四拍子」で「四分音符=52」という指示がありますが、中学生の時この作品を初めて聴いた(リード初来日時のライブLP)際、私は「四分の四拍子」で「四分音符=100くらい」と感じていました(生意気にも、「ダンス」というタイトルからゆったりとしたテンポはありえない、と思っていたのでしょうが)。
間もなくして、この作品のスコア(コンデンス)を手にする機会がありました。スコア上の1小節を2小節に感じていたということになります。
当時はかなり考え込んだのですが、人間にはもともとゆったりとしたテンポをそのようにとらえる感覚が備わっているものだ、ということを知り、安堵したことを覚えています。とはいえ、違うものは違うのです。
●「拍子」には意味があります。作曲者がその拍子で書いた理由があります。それを想像してみるだけでも、演奏に何らかの変化が見られるかもしれません。
同じリードの『エル・カミーノ・レアル』。この作品の中間部で使用されているスペインの舞曲は、リードがこの作品で使用した拍子とは全く違うそうです。「リード風」に変化している・・・。そこにリードのどのような考え、思いがあったのかを考えてみるとより作品の理解も深まるように思いませんか?
●他の要素と絡めて見たとき、拍子と構造が一致しないことはよくあります。作曲者によっては拍子を変えて書くこともあるでしょうが、その部分が決して長くつづくものではない限りは、基準となっている拍子を保っていることが多いかもしれませんね。
フィリップ・スパーク(1951~)の『オリエント急行』にはこのような場面があります。
(引用:STUDIO MUSIC COMPANY版スコアより)
曲の後半、四分の二拍子の中に三拍子の音楽が見えませんか?作品全体からすればほんの一瞬のことですが。曲の前半には結構拍子の変化があるのですが、後半のこの部分はあえて拍子を変えずに書いています。スパークがこのように書いた意味を皆さんはどう考えますか?
この作品を二度指揮したことがありますが(いずれも吹奏楽版)、私はこの部分、どうしても「三拍子×2小節」で振りたくなりました・・・。
ただ、他の要素と関連づけてスコアを読むことで、作品によっては小節線を引き直して読んだ方がいい、というケースはあり得ます。「拍子」を「変化させることができないもの」と分類しておきながら矛盾したことを言うようですが、作曲者の意図を十分に汲みとった上で、ということです。
●拙作で恐縮ですが、サクソフォーン三重奏曲『RONDO CHROMATIQUE』(ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズ刊)、草稿の段階では、冒頭はもっと目まぐるしく拍子が変化するものでした。
上が出版譜、下が草稿です。小節線を引き直した理由は諸々あるのですが・・・。この作品、書き始めてから終止線を引くまでに約3年かかりました。その3年の中でさまざまな「変化」が私自身にあったということです。
●さて、「拍子」は音楽の「骨格」とは言いましたが、もちろん、一般的(という語が適切かどうかはわかりませんが)な「拍子」を持たない、あるいは一般的な「拍節」によらない作品も多く存在しますよね。いくつか見ておきましょう。
皆さんもよくご存知であろう、ジョセフ・シュワントナー(1943~)の『そしてどこにも山の姿はない』には、明確に「拍子」と「テンポ」が示されている部分と、「時間」を示すことで「拍節」を無効化している部分があります。
(引用:SCHOTT版スコアより)
冒頭、「時間」が示されつつも「八分音符=60」という指示があることも見逃せませんよね。
「時間」を指示する、といえば、今年惜しくも亡くなったクシシュトフ・ペンデレツキ(1933~2020)の『広島の犠牲に捧げる哀歌』、このスコアを初めて見たときは確かに衝撃を受けましたが、ペンデレツキが示した書法も最早一般的です。
●こういうケースもあります。
楽譜には一応拍子が書かれている(あるいは小節線が引かれている)ものの、作曲家自身が、いわば「便宜上」示しているだけ、というものです。
吹奏楽の作品ではないのですが、例を2つ挙げておきます。
(引用:DURAND Editions Musicales版より)
(引用:SCHOTT版より)
上はオリヴィエ・メシアン(1908~1992)の『4つのリズム・エチュード』(ピアノ曲)の第2曲『音価と強度のモード』、下はジェルジュ・リゲティ(1923~2006)の『ピアノのためのエチュード第7番』です。
それぞれ作曲者が、「演奏を容易にするための仮想の拍子」、「作品に「拍節」はなく、小節線は構造を示すものではない」とプログラム・ノートに書いています。
(「プログラム・ノート」はやはり無視できませんね!)
また、このような作品もあります。
チャールズ・アイヴズ(1874~1954)の『宵闇のセントラル・パーク』という管弦楽曲では、違う拍子、違うテンポの音楽が同時に演奏される場面が出てきます。
(引用:MOBART MUSIC PUBLICATIONS版スコアより)
先に触れた『オリエント急行』のようなケースとは随分様相が違います(作曲されたのは1907年!)。
エリック・サティ(1866~1925)の作品には「小節線」が書かれていないものが多くあります。明確な「拍節感」を感じることができる作品でさえ、です(なぜサティが小節線を無効化しようとしたのか、それには明確な理由があるのですが、そこまでは触れません)。
●皆さんご存知のカレル・フサ(1921~2016)作曲『プラハ1968年のための音楽』。
冒頭の四分の四拍子、小節内の各拍に明確な「強弱」の関係を感じる方はいらっしゃいますか? それは、冒頭に限ったことではなく、各楽章に示された拍子はそれこそ「便宜上」なのかもしれません。
例えば、第三楽章を四分の四拍子と感じながら聴く方は(演奏経験のある方や楽譜を熟知した方以外)ほとんどいらっしゃらないかもしれません。
(引用:Associated Music Publications版スコアより)
この作品、最後の最後に小節やテンポを無効化した場面が現れます。
何か意味があると思いませんか?
鑑賞する側からすれば、この場面は何拍子なのか、小節線がどう引かれているか、は大きな問題ではない(それらを気にしながら聴いてはいない)かもしれませんが、演奏する側はどうしても示されている拍子に注意を向けざるを得ません。
他の「音楽を形作る要素」も絡んでくるのですが、そこに作品成立の背景や当時の世界情勢をも重ねてみることで、「そこがこの拍子で書かれている意味」、「最後の最後で拍子やテンポが無効化されている意味」を考え、想像を膨らませることができるような気がします。私は、一定の「拍子」を指示することで、ある種の「秩序」(しかも強制された)を表現しようとしたのでは、などと・・・。
●これらの例は、いわゆる「現代音楽」では特別のことではありませんし、近年の吹奏楽作品でもこのような例はたくさんあると思います。最早「拍子」=「骨格」という図式(?)は適当でないのかもしれませんが、それでもやはり、大切な「音楽を形作る要素」であることに変わりはないでしょう。演奏者の裁量で「ここは二拍子に変えてしまおう」なんてことはありえませんよね?「指示されている時間を半分に縮めよう」なんてこともありませんよね?
●「拍子」あるいは「拍節」といったことを突き詰めようとすればキリがありません(音楽そのものを突き詰めることも、ですが・・・)。このコラムも終わりが見えなくなってしまいます。
私は2019年の10月から11月にかけて、自身のfacebookで『三拍子の話』と題して15回に渡り思うことを書いてきました。興味のある方はぜひのぞいて見てください。
https://www.facebook.com/kmasa1006/
調性
●吹奏楽の作品も多様化し、今や、「調性音楽」なのか「無調音楽」なのか、などとカテゴライズする意味はあまりないのかもしれません。しかし、バッハの時代からベートーヴェンの時代を経て19世紀、20世紀と私たちが今日親しんでいる音楽の多くは「調性」というものがベースあります。
「無調音楽」だって、「調性音楽」があったからこそ生まれた、というのは言い過ぎでしょうか・・・?
多様化すればするほど、一般的な五線譜による記譜も難しくなっていきます。伝統的な理論では収まりきれないものが出てきます。自らの考えをどのように五線譜に記していこうか・・・。一般的なだけではメッセージを伝えられない、と、新たな記譜の方法や記号を生み出したり、五線譜を離れて図形楽譜にしてみたり、と作曲家は模索してきたのです。
●「調性」ということに焦点を当てても、伝統的な(古典的な)理論を離れた使われ方をするようになってきました。例えば、古典的な「ソナタ」であれば、第一主題(主調)があり第二主題は「属調」に転調する、などの規則があったりしますが、現代の作品は形式的にも古典的な規則からは解放されて、転調もかなり自由になっていますよね。
「調号」を最初から付さない作品も多くなってきました(私もほぼ全作品、調号を付していません)。伝統的な作品に比して転調も多様になっており、その度に調号の変更を楽譜に記すことは却って演奏者のストレスになります。また、「複調(ポリトナール)」の作品もありますから。
アルテュール・オネゲル(1892~1955)は著書『私は作曲家である』(吉田秀和訳/音楽之友社刊)の中で、いくつかの作品を例に挙げ、調号があることが却って読譜を難しくしていることを指摘しています。彼はまた、いわゆる「移調楽器」の記譜についても触れており、「実音」で記譜する方が好ましいと述べています。
下の楽譜はルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンの『交響曲第4番』第一楽章の第二主題です。
(Barenreiter-Verlag版スコアより)
規則通り、主調(変ロ長調)から属調(ヘ長調)に転調しているのですが、調号をみてください。主調のままですよね。属調への転調ですから、フラットがひとつナチュラルになるだけです。読譜はそれほど複雑なものではないでしょう。
しかし、時代が進み作品の規模も変わってくると・・・
(引用:Musikwissenschaftlicher-Verlag版スコアより)
アントン・ブルックナーの『交響曲第5番』第一楽章の第一主題に入る直前です。
主調は変ロ長調ですが、ここではイ長調の音楽が。
転調と記譜の関係については、ぜひ演奏者の皆さんの意見を伺いたいものです。
●「調性」にも意味があります。作曲家がその調で曲を書いたのには理由があります。例えば教育目的の作品の場合、出版社がグレードに応じて調性を限定している(アメリカの吹奏楽譜など)ケースもありますが、そうした制限があったとしても、作曲家は自らの意志で調性を決めているはずです。
作曲家にとってある調性が特別意味を持つ、ということもあるでしょう。
兼田敏氏(1935~2002)の『バラード』全5曲中、「ニ長調」に終止するものが2曲、「ヘ長調」終止が3曲です。ご本人にとってとても思い入れのあるシリーズが特定の調性に終止することの意味とは・・・?
ちなみに、兼田氏の実質デビュー作(1956年度毎日音楽コンクール第2位)となったのは『フルート、クラリネット、バスーンのためのニ調のソナタ』です。
●「調性格論」ということをご存知の方もいらっしゃるでしょう。現代の作曲おいてはあまり影響を与えるものではないかもしれませんが、それでも、ある調の曲を聴くと特定の風景やイメージ、あるいは色が浮かび上がってくる、という方がいらっしゃるのも事実。ベートーヴェンはシューバルト(シューベルトではありません)という人の「調性格論」に影響を受けたともいわれています。
私は3年前、高校生たちとデイヴィッド・ギリングハム(1947~)の『ウィズ・ハート・アンド・ヴォイス』を演奏した際、この「調性格論」について触れました。
もちろん、「この曲のこの部分はイ長調だからこのように!」と指示するためではありません。「作曲家には考えがあってこの調性で作曲している」ということを知ってほしかったからです。
この作品は一種の「コラール変奏曲」、題材が(委嘱元の学校の校歌として歌われる)讃美歌ということもあり、少しは応用できるかな、という思いもありましたが。もちろん、こうした(18世紀に論じられた)「調性格論」にとらわれることはないと思いますが、題材によっては上手に活用できるかもしれません。
●ベートーヴェンの『交響曲第9番』、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~1975)の『交響曲第5番』、伊藤康英氏(1960~)の『ぐるりよざ』は共通の和音で終止します。その調性、シューバルトの「調性格論」では「勝利とハレルヤ。戦いの叫び、勝利の歓喜の調(後略)」とあります。
個人的な思いですが、上記3作品は「ニ長調」の和音に終止することに意味があったのだと思います。現実は「勝利とハレルヤ。戦いの叫び、勝利の歓喜の調・・・」ということにはなっていないのかもしれませんが、その和音に何らかの「希望」を込めたのではないかと考えるのです。
最後の音(和音)がどう書かれているか、そこにどのような思いが込められているかを探ると、そこに至るまでのドラマをより多面的に構築できるのでは、とも思っていますし、古い「調性格論」もこうした視点から活かせるのではないか、とも思っています。
それだけではなく、古い、伝統的な音楽理論も、それに縛られるのではなく、上手に活用する、という視点が求められるようになってきている、と考えることもできます、作曲にしろ演奏にしろ(時代の流れに沿って「理論」そのものも変容してきたのですから)。
ちなみに、拙作『メモリアル・マーチ “ニケの微笑み”』(ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズ刊)も同じ和音で終止します。
●さて、「調性」には作曲者のこだわりがあるのかもしれない、という例を。
大分県警在職中、演奏会で宮川彬良氏(1961~)の『生業(ナリワイ)』を取り上げたことがあります。
(引用:東京ハッスルコピー版スコアより)
ご覧の通り、「イ長調」の調号が付してあります。最近では「シャープ系の曲だから難しい」とか、「フラット系の方が云々」などというのを耳にすることは少なくなったようにも思っていますが、それでも、こうした調号が目の前に現れると、少々身構えてしまう方もいらっしゃるでしょう。
作品は大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)の委嘱によるもの、もちろん、調性による演奏のしやすさなどは考慮されていないと思います。
それにしてもこの作品(全三楽章/私は第一、第三楽章を演奏しました)、「イ長調」という調性にはきっと意図があると思いました。初演のライブCDに掲載されている解説(や、初演時のプログラム・ノート)を読むと、「これは宮川さんご自身のことを音楽にしているのだ」、ということが分かります。ということは、「イ長調」のAは「アキラさん」のAなのでは・・・?確証はありませんが、私はそれを念頭に練習・演奏に臨みました。
(厳密に言えば、イ(A)音を主音(終止音)とする、いわゆる「ヨナ抜き音階」が主に使われています。)
宮川氏の調性へのこだわりは、『ブラック・ジャック』の第一楽章にも現れます。「転調のないソナタ」です。これを宮川氏は「ソナタという西洋の様式美に、モノトーンの日本の魂が注入されたような感覚」と述べていらっしゃいます。
●「調号」を最初から付さない作品も多くなってきた理由として、「転調」の多様さと「複調」作品ということをあげましたが、このようにしっかりと調号を付している作品もありますので、ご紹介します。
(引用:BOOSEY & HAWKES(Hawkes & Son)版スコアより)
グスターヴ・ホルスト(1874~1934)の『ハマースミス ~前奏曲とスケルツォ』の冒頭、「前奏曲」にあたる部分です。
「スケルツォ」の部分では(ほぼ)調号が用いられていません。奏者自身(パート譜)の読譜はそれほど難しいものではないと思いますが、ホルストの意図をどう皆さんはどう読み取りますか?
●「調性」ということに関連して、様々な「旋法」についても知っておく必要がありますよね。一般的な「ドレミファソラシド」あるいは「長調」、「短調」では収まりきれない作品がむしろ多くなってきました。いわゆる「モード」による作曲です。
「ドレミファ~」の元となった「教会旋法」は押さえておきたいですし、日本古来の旋法や海外の民謡等の旋法、あるいは、メシアンの「移調の限られた旋法」の第2番(身近なところでは、昨年度の吹奏楽コンクール課題曲『「あんたがたどこさ」による幻想曲』にも用いられていました)、ブルーノート・スケールなども、知識だけでなく、普段からその響きに触れておくことも有効でしょう。
取り組んでいる作品に、ある「旋法」を認めることができれば、その旋法による音階練習を取り入れてみてもいいですよね。
●演奏者の裁量で「変えることができないもの」としての「調性」の話からは、少し逸れてしまったかもしれません。もしかしたら、これまで、演奏のしやすさのみでしか「調性」を、また、スコアを見てこなかった方がいらっしゃるかもしれませんが、一度、そこにある(であろう)作曲者の考えや、こだわりを探ってみませんか?
●最後にひとつ皆さんにある事例をご紹介して、「変えることができないもの」としての「調性」の項を終えたいと思います。
審査員として聴いていたアンサンブル・コンテスト、ある高等学校のサクソフォーン・アンサンブルがベーラ・バルトーク(1881~1945)の『ルーマニア民族舞曲(集)』を演奏しました。ご存知の通り「編曲もの」です。
原調での演奏がスタートしましたが、途中の数曲を低く移調して演奏していたのです。その方が調号のシャープの数も減って「演奏しやすかった」からでしょう(後から聞いた話では、生徒さんの判断だったそうです、指導者はそれを止めたらしいですが・・・)。
各曲が独立しているとはいえ、6曲(7曲としている記述もありますが)がまとまってひとつの曲が作られているのですから、この作品に慣れ親しんでいる者にしてみれば違和感を抱かざるを得ません。
例えば、ホルストの二つの『組曲』やリードの『アルメニアン・ダンス(全曲)』の中のいくつかの楽章が移調された演奏、皆さんは想像できますか?『ルーマニア民族舞曲(集)』は「編曲もの」でもありますので、なおさら慎重な配慮が求められると思います。
私の師のひとりである岩井宏之先生(1932~)が、著書『音楽史の点と線(上)』(音楽之友社刊)の中で、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(1925~2012)が歌うフランツ・シューベルト(1797~1828)の『冬の旅』について似たような指摘をされています。
「移調の問題は、演奏全般にみられる問題ではない。器楽曲では絶対におこらない」と述べられた上で、「シューベルトは、調性を思いつきで選んだのではなかった。(中略)声域の限界のために移調するのは仕方ないとして、(中略)全体が規則正しく、シューベルトが意図した通りの調的関連性をそのまま維持して移調されたものではない(中略)これでよいのだろうか?」と。
しかし、岩井先生は「『冬の旅』が音楽作品としてもち得る重みと凄さを教えてくれたのは、フィッシャー=ディースカウ以外にいない」とも述べていらっしゃいます。
「拍子」が「骨格」であるなら、「調性」は「気質」のようなものかもしれません。「性格」は取り巻く環境によって変化することはあるでしょうが、「気質」は持って生まれた性質、なかなか変化する(させる)ことはできませんよね。
今あなたが向き合っている作品がどのような「気質」であるのかを考えると、見えなかったものが見えてくるかもしれません(このあたりは、人間関係と似ているかもしれません)。
最後に
●スコアに向き合うということは、ひとりの人間と向き合うことかもしれません。さまざまな要素に焦点を当てつつスコアに向き合えば、作品の方からあなたに寄り添ってくる、ということがあるかもしれません。気になる作品があればどんどんアプローチしていきたいものです。
今回触れることができなかった「音楽を形づくる要素」については、これからも随時掲載していただく予定です。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
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正門研一氏プロフィール:
武蔵野音楽大学卒業(音楽学)。
1998年、第9回朝日作曲賞(吹奏楽曲)入選。
2003年4月~2005年12月、北九州市消防音楽隊楽長。
2006年1月~2017年3月、大分県警察音楽隊楽長。
2008年、国民体育大会等の式典音楽制作及び式典音楽隊指揮。
行進曲「エンブレムズ」(1999年度全日本吹奏楽コンクール課題曲)をはじめ、吹奏楽、管楽器のための作品を多く作曲。
作品は国内のみならず、アメリカなどでも演奏されている。
作編曲活動のほか、コンクールの審査員や研究、執筆活動も行っている。
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