前回から「音楽を形づくる要素」ということでお話をしております。
私は「音楽を形づくる要素」を、
「変えることができないもの」
「変化する(させる)余地のあるもの」
「変化が期待されるもの」
の3つに分類し、前回は「変えることができないもの」の中から「拍子」と「調性」についてお話ししました。
今回は、「変えることができない」もうひとつの要素、「音の配置全般」です。
音の配置全般
●「音の配置」を私は、「旋律(あるいはモティーフ)」、「リズム」、「和声」、「音色(オーケストレーション)」、「音高や音域」など楽譜を見て確認できるもの、つまり実際に音として響くものとしてお話したいと思います。「音色」については、個々の奏者が表現上コントロールするものという意味合いではなく、あくまでも楽器自体の音色です。前回私は、「拍子」を人体における「骨格」のようなものだとお話ししました。ここで私の言う「音の配置」は、「容姿」と例えることができるかもしれません。人(でなくてもですが)と向き合う時、まず目に入るのはその容姿ですよね。音楽もまず耳に入ってくるのは(あるいはスコアを通して目に入ってくるのは)「旋律」や「リズム」、「和声」、「音色」など…。ただ、音楽の場合(これも前回お話ししましたが)「容姿」全体が一度に耳に入ることはありません。作品(演奏)が終わってようやく全体が見えるのです。「容姿」というものは誰かの手によって無理矢理変えてしまうことは基本的にできません。「容姿」はときに「表情」や「感情」を色濃く映し出すものです。「容姿」をこちらの都合で変えてしまうことは、作品本来の姿を歪めてしまうばかりか、誤ったメッセージを伝えることになりかねない…。私が「音の配置全般」を「変えることができないもの」と分類した理由はこのようなところにあります。
(後述しますが、「それでも変えなければならない」ということはあります。)
●「音の配置全般」は、前回お話しした「拍子」と「調性」と密接に関わっています。「リズム」は「拍子」との関係が深いですし、「和声」、「音色(オーケストレーション)」、「音高や音域」は「調性(=気質)」、「旋律(あるいはモティーフ)」は両方と深く関わってきます。
作曲をする上では、緻密な計算の上に骨格を作り上げてから容姿を整えていくということもありますし、「容姿」が先に浮かび上がってくることも当然あります。作品の編成はほぼ決まっていることが多いですから、浮かび上がってきた「容姿」は特定の、あるいは組み合わされた楽器の色を持っていることも多いです(であれば、当然音高や音域も指定されることになります)。また、それが「旋律」であれば、「和声」を伴って浮かび上がってくるものです。こうしたことは、作曲を進めていく際に変化していくこともあります(私の場合、どのように展開させようかと試行錯誤した末、結局最初の姿に戻ることが多いような気がしていますが…)。
●「うちの学校(団)にはこの楽器がない」、「感覚的に合わない」など演奏者側にも様々な理由はあるでしょうが、まずは、作曲者はどのような意図でそのような配置をしたのかをじっくり考えてみましょう。「なぜそのような構成で?」、「なぜその楽器の色で?」、「なぜそのハーモニーで?」などなど…。それは、人と向き合うことと同じだと私は思うのです。「拍子」や「調性」と同様、作曲者が「音の配置」をそのようにしたのには意図があります。理由があります(場合によっては、特定の演奏者が想定されていたり、ということもあります)。「なぜ?」という問いかけが多いほど作品、スコアとの距離が近づくのではないかと思います。その結果、「カットや改変をするものではない」という思いを改めて持つことにもなるでしょうし、「やはり納得いかない、変えた方がいいのではないか」という気持ちになることもあるでしょう(明らかに作曲者や出版の際のミス、と判断できるときは躊躇する必要はないと思います)。
著作者人格権
●少し違った視点からお話ししましょう。
「著作権」というと「面倒だなぁ…」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、重要なことです。私たちは、誰かが作った著作物を使用(公の場で演奏、収録などで)しています。楽譜を買ったり、CDを買ったり、ダウンロードしたりとさまざまなかたちで音楽を手にするのですが、これは、個人で楽しむ権利を買ったにすぎません。公の場で上演などする場合には、著作者自身(あるいは著作権を譲渡された出版社など著作権者)が公開した状態で上演することが基本です(編曲の場合は著作者等の承諾を得て公開されたもの)。楽譜を買ったからといって、作品の内容を自由に改変していいというわけではないのです。
●著作権の中には「著作者人格権」というものがあり、これは誰にも譲り渡すことができない著作者固有の権利です。「著作者人格権」には、「公表権」、「氏名表示権」、「同一性保持権」の3つがあのですが、「同一性保持権」はこう規定されています。
(同一性保持権)
第二十条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
作曲者の意に反するカットや改変は認められないということです。
吹奏楽コンクールの音源を参考にカットや改変する、ということはよくあることかもしれませんが、それは演奏した団体にのみ認められたことかもしれませんし、何の承諾も得ていない可能性もあります。出版社を通して作曲者に確認し、許諾を受けるようにしましょう(私の作品を多く出版してくださっている『ゴールデン・ハーツ・パブリケーションズ』様も自社で出版されている作品については作曲者に確認をしてくださいます。作曲者や作品によっては認められないこともある、ということは理解しておきましょう)。
●数年前、アメリカの作曲家ジョン・マッキーが、日本の吹奏楽コンクールで演奏された『交響曲“ワイン・ダーク・シー”』の動画を見て、SNS上で苦言を呈したことをご存知の方もいらっしゃると思います。作曲者の同意なしのカット、改変が行われていたというものです。上記は日本の法律ですが、著作権に関する条約で海外の作品であっても日本国内では日本の作品と同様の保護を受ける、ということも知っておきたいです。
●著作者人格権の侵害は「親告罪」ですので、著作者なり権利関係者が「被害を受けた」と訴えない限り裁判になることはありません。これまで、「作曲者の意に反する切除や改変」を理由に裁判が起こされたということは聞いたことがありませんが、それは、作曲者が演奏者の裁量による(自由な)カットや改変を認めている、とうことではありません。作曲者の心中を推し量り、甘えないようにしたいものです。
ちなみに、「著作者人格権」の侵害は、「5年以下の懲役または500万円以下の罰金」が課せられます。
作品にも人格がある
●「著作者人格権」というものがあるのですから、やはり作品にも「人格」があると思いたいです。「拍子は骨格」、「調性は気質」、「音の配置は容姿」と私は例えてこのコラムを書いています。それは、法律の名前を特に意識しているわけではないのですが、曲を作る者として言えることは、作品はある意味私の「分身」です。作品に、スコアに向き合っていただく際には、ぜひ、ひとりの人間と向き合っている、対話しているという気持ちを持っていただけるとありがたいです(どのような作品であっても)。
楽譜通りの演奏
●私たちは、「楽譜通りに演奏を」と教えられてきました、また、指導の際そのように伝えています。この「楽譜通りの演奏」とはどういうことでしょうか?
●「楽譜通りの演奏」は19世紀中頃に起こった流れのようです。しかし、私たちが現在考えているようなある種「絶対的な忠実さ」として「楽譜通りの演奏」がとらえられるようになったのは20世紀中頃になってからのことです。そこには、録音技術の発展が影響しているのではないか、とも考えられています。おおよそ、「楽譜通りの演奏」とは、前回からお話ししている「音楽を形づくる要素」のうち「変えることができないもの」、つまり「拍子」、「調性」、「音の配置全般」を守ったものといえるのではないかと私は思います。
●指定したテンポを忠実に守ってほしいと考える作曲者もいます。が、演奏される空間などの影響を受け必ずしも作者が望む通りに受け止められないこともありますし、演奏者の心理状態に左右されることもあります。そうした中でのテンポの違いを「改変だ、けしからん!」という作曲家はいないでしょう(余程のことでない限りは)。強弱の変化も相対的なものです。確かに作曲家が想定した強度というものはあるでしょうが、強弱の対比が意識されていれば、これも「改変だ!」と訴えられることはないと思います。演奏者によって変化する要素があることは作曲者も十分理解しています(それでも、ストラヴィンスキーのようにそうした変化、つまり演奏者の「解釈」を受け付けなかった大作曲家がいたことも事実です)。
●身近な例を挙げてみましょう。
全日本吹奏楽コンクールの規定では、課題曲について「楽譜通りに」ということが書かれています(本当は、自由曲もそうでなくてはならないはずですが…)。カットや改変(旋律や和音、例外はあるものの楽器の置き換え)をしてはならないということですが、ここで対象となるのは、「音楽を形づくる要素」のうち「変えることができないもの」、つまり「拍子」、「調性」、「音の配置全般」ということになりますよね。
余談ですが、課題曲の中に明らかに誤った和声進行を聴くことが稀にあります。上手な演奏になればなるほどその誤りが鮮明になり、「これでいいのだろうか?」とモヤモヤしたものを感じてしまいます。
『雲のコラージュ』スコア(全日本吹奏楽連盟)より
1994年度の課題曲『雲のコラージュ』(櫛田胅之扶作曲)のスコアは、いわゆるオプション楽器の五線が「空欄」になっており、演奏側の裁量で楽器を加えることができるようになっていました。「旋律・副旋律・和音を変えない範囲で」と書かれているように基本的な「音の配置」を変えることはできません。和音については、基本形・展開形という位置関係を変えることもできません(配置、重複は自由)が、旋律・副旋律はオクターヴの上下に追加可能、また、打楽器の追加も可能、というものでした。裏を返せば、「旋律・副旋律・和音(あるいは楽器の配置)」などは作曲者が認めない限り変えてはならない、ということではないでしょうか…。これは課題曲に限ったことではないと思います。
●課題曲の例からも分かるように、「楽譜通り」に演奏するということは、まず演奏者の感情等の影響を受けない要素、演奏者の裁量で変えることができないものを理解することから始まるのです。もちろん、テンポの変化、強弱の対比なども併せて見ていきたいですが、その点については今後お話ししてまいります。
五線紙を活用してみよう
●さて、このコラム、スコアに目を通し音楽の「しくみ」をつかもうとされる方への手助けになれば、という目的で書かせていただいております。そちらの方へ視点を移してまいりましょう。
●スコアを見てある程度構成がはっきりしている(例えば、調性が明確で旋律や副旋律、伴奏などがはっきりしているなど)作品であれば、スコアリーディングに関する書籍や著述などにも書かれているように、(ご自分なりに)スコア上に直接書き込んで…、という方法は十分可能だと思います。しかし、前回から書いていますように近年の吹奏楽作品は多様化しておりスコアとただ「にらめっこ」しているだけでは「しくみ」をなかなかつかみきれないことも多いです。私がお勧めしたいのは五線紙をスコアの側に置いていただき、気になるモティーフや和音を書き出して、その特徴を探ってみる、ということです(もう、アナリーゼ(分析)の域になってしまうかもしれませんが)。そこから得たものを(確認のため)スコアに書き込んでみるといいかもしれません(よく、「コンデンス・スコアを自分なりに作ってみるとよい」と言われますが、これからじっくり作品と向き合おうという方にはこれも有効だと思います)。
では、いくつかの例を。
●プラハ1968年のための音楽(カレル・フサ)
ここでは、特に第2楽章に注目してみます。
終始4分の4拍子、調号は付いていません。冒頭は3つのグループに分けて考えて良さそうです。すなわち、「低音クラリネット群+サキソフォーンパート」、「金管低音群」、「打楽器群」。
『プラハ1968年のための音楽』スコア(Associated Music Publications版)より
冒頭で各グループが演奏する音を書き出したのが、以下のメモです。
メモでは音域やオクターヴを超える跳躍についてはあえて無視していますが、もちろん演奏する上では無視できません。
音を並べてみると、同じ音が出てきませんよね(「低音クラリネット群+サキソフォーンパート」は隣接する音が繰り返される、ということはありますが)。「十二音技法」をバースに書かれていることがわかります(厳格なものではないものの)。
「金管低音群」の音の並びに着目してみます。最初の4つの音の音程関係、これは第一楽章のファンファーレで頻繁に登場する十六分音符の動きと同じです。5番目から8番目の音の音程関係もそうです。
こうした点だけ見ても、この作品がいかに緻密に組み立てられているかが分かるというものです。変化させようがありませんよね。
メモをして音の動き、特に音程関係を観察していけば見えてくるものがきっとあります。
●ディオニソスの祭り(フローラン・シュミット)
今年はベートーヴェンの生誕250周年が注目されていますが、フローラン・シュミット生誕150周年にもあたります。
1913年に作曲された作品ですので、近年の作品とは言えませんが、吹奏楽を語る上では避けて通れない作品ですので、少し触れてみます。
ここでも、音の動き(音程関係)に注目してみます。
スコアの冒頭を見てみましょう。
『ディオニソスの祭り』スコア(日本音楽出版社版)1ページ
『ディオニソスの祭り』スコア(日本音楽出版社版)3ページ
低音群の動きを中心に音を書き出してみます。
それぞれのモティーフが、半音ずつ上下に音域を広げていく様がお分かりいただけると思います。
全曲を通してみたとき、これらのモティーフは作品を支配するほどの重要性はないとは思われますが(終盤で再現されはするものの)、よく考えられていますよね。
●上記2作品では、旋律やモティーフを中心にご紹介しましたが、和音(『プラハ』では、作曲者自身が第一楽章の初めに出てくる3つのコードを重要な要素と位置付けています)やリズム型などにももちろん応用できると思います。そうして書き出し、観察した内容が、他の作品に向き合うとき大いに役立つこともあります。そうした例をひとつご紹介しましょう。
●行進曲「威風堂々第一番」(エドワード・エルガー)
下の譜例はこの作品の第一マーチ(上)とトリオ(下)の旋律を書き出したものです。
各旋律、*印が付してある音を並べてみるとお分かりいただけると思いますが、第一マーチはリズムを縮めながら音階が下降していくことがわかりますよね。トリオの旋律はどうでしょうか?小節が進むごとに音階が下降していきます。
つまり、第一マーチとトリオは「同じモティーフがベース」になっており、かつ、その「モティーフは下降する音階」であるというということです。
続いて、トリオの旋律に別の楽曲の旋律を重ねてみます。
上の段は、2013年度の吹奏楽コンクールの課題曲『エンターテインメント・マーチ』のトリオの旋律です。ご覧いただければ分かると思いますが、最初の4小節の音の進行は「下降する音階」がベースになっています。その後の音の動きと和声進行を見てみましょう。共通する部分が多いと思いませんか?
『威風堂々』の「しくみ」をつかんでいれば、『エンターテインメント・マーチ』のトリオの「しくみ」はすぐにつかめるのです。そして、これが「名作へのリスペクトだ」と思えば、アプローチの方法もより多面的になるのではないかと思います。
●スコアを読む、勉強するということは、何もその作品を知ることだけではなく、さまざまな作品と向き合っていくためのヒントをつかむことにもなり得るのです。
それでも変えなければならないとき、変えた方がいいとき、変えたいとき
●このコラムの最初の方で、「それでも変えなければならない」ということがある、とお話ししましたので、少し触れておきましょう。
●まずは、「明らかに作曲者や出版の際のミス、と判断できるとき」です。最初の方でもお話ししましたが、このような場合躊躇することはないでしょう。「記号が抜けている」、「明らかな音高の違い(記譜の間違い)」などはすぐに修正できると思います。
●「やはり納得いかない、変えた方がいいのではないか」という気持ちになることはあります(感覚的に、あるいは理論的に)。作曲者がすでに亡くなっている場合は確かめようがありませんので、作品の「しくみ」を理論的につかんだ上で判断するしかないと思います。作曲者が存命中であるなら、基本的には直接尋ねてみることだと思います。
フレデリック・フェネルがクリフトン・ウィリアムズの『ファンファーレとアレグロ』と最初に取り上げた際、最後が唐突に終わりすぎると感じたため、最後から2小節目を1小節分引き伸ばしたと言います。もちろん、作曲者了承のもとでの措置です。
(東京佼成ウィンドオーケストラの常任指揮者に着任した直後の録音ではさらに2小節引き伸ばされています。)
『ファンファーレとアレグロ』スコア(Summy – Birchard版)最終ページ
フェネルは、「疑問を持った時は作曲家に直接言うべきだ」と言っています。
(私も1小節伸ばした方がしっくりくるような感じがしています。それは感覚的なものばかりではなく理論的に、です。)
ちなみに、『ファンファーレとアレグロ』は現在Alfred社から出版されていますが、特に改訂などはされていないようです(Alfred社が参考音源を公開していますが、件の小節は引き伸ばされていません)。
●指定されている楽器が準備できない場合は別の楽器に置き換えて、ということは頻繁に起こるでしょう(プロ楽団ならまずあり得ないことですが)。指定の楽器があるにも関わらず変えることは避けるべきです。
ただ、古い作品の場合、時代の状況に合わなくなってしまっているケースもあります。例えば上述の『ディオニソスの祭り』などは、初演した「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」でさえ、指定の編成で演奏できない状況にあります。現在の編成はサクソルン属が大幅に削減されているため、削減されたパートの音は他のパートに移し変えて演奏しているのです(現在使用しているパート譜を直接確認させてもらう機会がありました)。
やむを得ず楽器を置き換える必要がある場合は、作曲者の意図を汲み取る努力は惜しまないようにしたいものです。
●例えばベートーヴェンの交響曲でも、「マーラー編曲」版があったりします。マーラー自身はベートーヴェンと同時代に生きたわけではありませんので、作曲家・指揮者として経験、見識を基に十分検討はしたことでしょう。楽器の発達や、演奏・聴取を取り巻く環境の変化ということも背景としては十分考えられます。ただ、「マーラー編曲」によるベートーヴェンを聴く機会はそれほど多くはありません。その意味を皆さんはどう考えますか?
(誰かが手を加えたところで最終的に、人間は「最初の姿」を求めるのではないか、と私は思っています。)
終わりに
●現在みなさんはどのような作品、スコアに向き合っていらっしゃるでしょうか?どのような目的で向き合っていらっしゃいますか? 純粋に「作品を深く理解したい、作曲家の技法を研究したい」という方もいらっしゃるでしょうし、「楽団の実情に合う作品だろうか? 楽団の実情に合わせることができるだろうか?」という視点からスコアに向き合っている方もいらっしゃるでしょう。
今回はいつもに増して話が多岐にわたりましたが、「音の配置」というものが「音楽を形づくる要素」の中で「しくみ」をつかむ上で最も大切な要素であることは(何となくでも)お分かりいただけたのではないかと思います。また、「音の配置」という視点でスコアと向き合うことで、今ご自分がどのような理論を身につけておいた方がいいか、ということも見えてくると思います。前回と今回で触れた「変えることができないもの」(すなわち、「拍子」、「調性」、「音の配置全般」)は、基本的な「音楽理論」を身につけることである程度つかむことができると思います(しかし、その「理論」も実は時代の流れの中で変容してきた、ということは覚えておいてほしいですし、音楽そのものも社会状況の変化に伴って変化する、変化せざるを得ないこともあるのだ、ということも理解しておきたいです)。
●今後、「変化する(させる)余地のあるもの」や「変化が期待されるもの」にお話は移っていきますが、次回はその導入として、「人がどのように音を、音楽をとらえるのか」ということについてお話ししたいと思います(これを押さえておけば、練習内容はもっと充実する、と私は思っています)。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
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正門研一氏プロフィール:
武蔵野音楽大学卒業(音楽学)。
1998年、第9回朝日作曲賞(吹奏楽曲)入選。
2003年4月~2005年12月、北九州市消防音楽隊楽長。
2006年1月~2017年3月、大分県警察音楽隊楽長。
2008年、国民体育大会等の式典音楽制作及び式典音楽隊指揮。
行進曲「エンブレムズ」(1999年度全日本吹奏楽コンクール課題曲)をはじめ、吹奏楽、管楽器のための作品を多く作曲。
作品は国内のみならず、アメリカなどでも演奏されている。
作編曲活動のほか、コンクールの審査員や研究、執筆活動も行っている。
協賛
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